「明日の式に、あいつを呼んだ」
部屋はいつもと変わらず静かで、必要なものしか存在していないこざっぱりとした、いつもの風景。
そんな風景の一部で、彼はつまらなそうにベットに横になりながら、やっぱりつまらなそうに片手で本を持ち上げて読んでいる。
目を悪くしますよ。といつもは言うけれど、いつも直してはくれないから。
今日は言わないで置こうと、近くに散らかった書類と本を片付けながら思った。
秋の夜の冷える空気が気になって、私は片付けかけた書類を放置して窓に近寄り、閉める。。
円形に近い月の光は、それでも窓の曇りに反射して少しいびつな形をしていた。明日は満月かしら。と、何となく思った。
静かな空間。いつもの、私と彼の風景。だけど今日は、いつもと違っていた。
バサッと音が、ベットの上から聞こえる。何だろう、と彼がいる方向を見ると、彼は本を被っていた。
眠ってしまったのだろうか? そう思いながら、近付いた時————彼は重々しげに言葉をこぼす。明日の式に、あいつを呼んだ。
「あいつ……」
「カイルのことだ」
知ってるよ。そんな事はいえずに、私は彼の顔を一瞥するだけにとどめた。
声音はいたって普通で、彼はまるで「明日の夕飯はいらない」と言うように淡々としていた。何を考えているのか、分からない。
あまつさえあまり変わらない表情を、ほんの奥に隠されてしまってはもう打つ手無し。私は彼を見ながら、彼の言葉の意味を図りかねていた。
——知っていたんだろうか。私が、カイルさんの事を慕っていた過去(コト)を。
毎日のように病院に来ては、つれましたよとイワナを持ってきてくれた彼。私を変えてくれた、たったひとりの男性(ヒト)。
ダンジョン内でしかつれないから、正直諦めていたのに。毎日持ってきては、会話しようとし無い私に何度も言葉をかけてくれる。
いつの間にか、閉ざしていた唇の紐はほどけていた。私がマルヴィレスを介さずにこんな風に話せるようになったのは、やっぱり彼のおかげ。
でも、どうしてバレットがカイルさんを呼ぶ——そんな当たり前の事を、わざわざ私に言うのかが分からなかった。
まるで最初は呼ばなかったとでもい痛げな彼の口調は、どう意味をとったらいいか計りかねる。返答次第では、彼を傷つけてしまう——そんな気が、私にはした。
意味を図りかねた私が、どういうこと画と口を開くその一瞬前。 彼は顔の前の本をどけて。前髪に隠れている私の目をまるで見えるとでも言うように、水色の瞳を真っ直ぐ向けた。
「どちらを選ぼうと、俺はお前を責めない。だから——縛られなくて、いいんだぜ」
——ああ、彼はやっぱり気付いていたんだ。
私は彼の言葉の意味をようやく理解すると同時に、なんだかなきたくなって、彼から目を逸らした。
沈黙が、二人の間を夜の帳と同じように重々しく広がっていく。そこは、もうすでに日常の一部である、いつもの部屋ではなくなっていた。
いつもの沈黙が透き通った透明なものだというのなら、この沈黙はさしずめ漆黒に染まった星の無い新月の夜のイロ。
彼が本をベットの下に落す音が、静かに響く。時計の音がやけに大きく、かつゆっくりに思えた。
私は、事実、迷っていた。カイルさんへ憧憬する気持ちが、依然と同じ色を取り戻してしまいそうで、怖かったんだ。だけど、そんな私の気持ちも彼にはお見通しだったらしい。
こんな風に汚い私にも、彼は何時だって優しかった。『選ぶ』——という選択肢を、私に用意してくれていた。
いつもいつも、どうしてこのヒトはこんなに優しいんだろう。そう思うとなんだか悲しくて、フードの中で涙が一筋、頬に伝った。
私が男性の手を握れないと行った時、ダンスに誘ってくれたバレットさんはそうか、とだけ言って、ダンジョン前のセレッソの樹にもたれかかった。
行かないんですか? そう聞いた私に彼が言った言葉は、『俺も苦手なんだ。ダンスは特にな』——誘ってくれたくせに、下手な嘘。
いきたかった、ですか? つっかえつっかえにようやくいえた言葉に、バレットは少しだけ意外そうな顔で、でもすぐにしかめっ面に戻って。
『同じ事を何度も言わせるな。ここにいるのも、ここが静かで好きだからだ』
そうですか。私はそういいつつ、なんだか笑いたかった。へんな人だな、と少しだけ思って。やさしいなって、こころからそう思った。
それから、行事があるたびに待ち合わせをしていたわけでもないのに、バレットとはいつもこの木の下で会うようになった。
彼は私を見ても「よう」としか言わない。私が頷いて返すと、彼はいつものように樹に背をつけて、じっと空を見つめる。
まるでそこに幸せがあるみたいに、少しだけ口角を上げて。其れでも彼は、私に必要以上話しかけない。
「昼、食いに行くか」とか。「桜が綺麗だな」とか。それぐらいだけだった。
彼は優しかった。私が話さなくても、其れでいいと彼はそういってくれるみたいだった。ありのままの私を、彼は受け止めて、受け入れてくれた。
あの時から、私はこの人といるときが一番落ち着く——そう感じるようになっていた。————なのに。
「なんでっ、そんなこと……いうんです……かっ」
振り絞った私の声に、彼は伏せ目が血になっていた瞳を押し上げて、悲しそうに笑った。
彼のそんな表情なんて見たことが無くて。見たくなんか、なくて。私の胸はきりりと音を立てて痛んだ。
「俺は、あんたを変えれなかった。あんたを変えたのは……カイルなんだろう? 悔しいが、それが真実(ゲンジツ)だからな」
そういって、彼はまた目を伏せた。長いまつげが、水色の瞳を覆った。
私はどういったらいいか分からなくて、ただフードと前髪で表情が隠れている事に安心して、押し黙った。
だって、彼の言葉は、反論できなかったから。それが、本当だったから。
私を変えてくれたのは、間違いなくあの人だ。
私をこんな風に話せる様にしてくれたのも。思った事を口に出せるようになったのも。そして、自分の想いを大切にするようになったのも。
彼はふと、まるで自分をあざけるように笑った。無知でも打たれているみたいなつらそうな表情に、私の体は身動きが取れなくなった。
求める感情が強ければ強いほど、私の体はこわばって動かない。求めれれば求められるほど、どうしたらいいか、分からなくなる。
私が彼にしてあげられることは、何もない。私はもうすでに変わってしまったし、変わった原因を私自身が捻じ曲げることもできない。できる、はずもない。
それに——私は、変われたことが何よりも嬉しかった。だから、この件に関しては、どうしても否定はしたくなかった。
「結局俺は、お前を救えなかった。傍に居ることしか、術を知らなかったんだ。気付けなかった——お前が、変わりたいと思ってることさえ、俺は」
悲しそうに、辛そうに。彼はそういって、持ち上げていた上半身を背中から勢いよくベットにたたきつけた。
さびかけたスプリングが軋み、布団に絡み付いていた小さな布団の繊維がふわりと舞う。涙に濡れた私の視界の中で、其れはきらきらと光って眩しかった。
何故だか、涙が止まらなかった。言いたい事は山ほどあるのに、其れがうまく言葉になってくれない。
違うんだよって、そういいたかった。貴方の言葉は当たってるけど。だけど、私の本当の気持ちを知ってほしかった。
「わたし……はっ。変わりたいと……思いました。カイルさんと会って、私はそう……思いましたっ。自分の気持ちを、大切にする……そう、教わったから……」
「やっぱり、お前はあいつのことが——」
「だから、ありがとう……を、伝えたいと……思いましっ……た。踊れるって……伝えたいと、思いま、した。————いつも、セレッソの下で……私をっ……待っていてくれて——ありが……とうって……っ……伝えたい……そう、思ってました」
涙があふれて、もうとまらなかった。
しゃっくりを上げだした私を、彼がもうどんな目で見ているのか分からない。でもこれが多分——私自身の、気持ちだった。
私を変えてくれたのは、カイルさんだった。だけど……変わりたいと。変わって、ダンスを踊りたいって、そう思わせてくれたのは、やっぱりあなただったんだ。
歪む視界の中で、私は彼が横たわったベットに近付いた。何度も目をこすってみた彼の顔は、痛みを堪えているような顔をしていた。
言い方を間違えてしまったんだろうか? そう思った私に、彼は何を思ったのかシーツを私の頭の上からばさりと被せた。
何? と私が声にする前に、温かい感触が体を包んだ。バカヤロウ、という彼の今にも泣き出しそうな声が、シーツ越しに私の耳に滑り込んできた。
この期に及んでも、彼は私にじかに触れようとはし無い。——明日まで、私に選択肢を残してくれようとでもいうのだろうか。
いったい、この人の優しさは何処まで大きいんだろう。彼の体温を感じながら、私は彼の胸に額をこすり合わせた。
「もう、遅いな。……送ってく」
不意に彼はそういうと、私の体全部に被せたシーツを剥ぎ取った。
その勢いで、顔を覆っていたフードが、前髪を巻き込んで後ろにいってしまった。彼は、無防備になった私の目を見て、悪(ワリ)ぃ、と決まりが悪そうに、目を逸らす。
わたしは彼に微笑みかけると、いいんです。と彼に向かって呟く。彼は驚いたように私を見直して——そしてようやく、ニッコリと笑った。
「目が、兎みたいに真っ赤だ」
「私の瞳(メ)は……元々、赤色です、からっ」
私がそういうと、彼は声を上げて笑った。そして、彼は私に手を伸ばす。送ってくよ、という——いつもの合図。今日が最後になる、送りの合図。
私は笑って頷くと、座っていたベットから立ち上がる。同時に引っ込む彼の手を少しだけ見て、私の空っぽな腕にマルヴィレスを詰め込んだ。
Monday, December 29, 2008
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